主人公のワイルド曽田アイは、裕福なアメリカ人の父と日本人の母を持つ。
でも日米のハーフではない。
彼女は赤ちゃんの時に、養子としてシリアからニューヨークに渡ったのだ。

以来、アイは、自分の置かれた状況に罪悪感を持っている。
両親に欲しいものを聞かれても、答えられない。

なぜ、私だったのか?
私は別の誰かの幸せを奪ってしまったのではないか?

その気持ちはエスカレートしていき、
アイは世界中で起きる事故や災害や事件の死者数をノートに記録していく。

なぜ、私ではなかったのか?

アイが自分の存在を肯定できるようになっていくまでの半生記です。
西さんの『サラバ!』の女版とも言える。

今ほど「自己肯定感」や「承認欲求」というワードが取り沙汰されている時代はないのではないでしょうか。
個人的には、「自己肯定感ってそんなに必要?毎日生きていければ良いじゃん」と思うこともあれば、「どうして自己肯定できない訳?みんな自分のことしか考えていないのだから、自分が自分のこと肯定しなかったら、誰一人肯定してくれないよ!」とも思います。
そういう意味で、この小説はとても時代的だなと思います。

そして、西さんが書きたかった「愛」について。
西さんはインタビューで、「(ヘイト問題やシリア難民のニュースを見て)最近、愛が足りないんじゃないかなって。自分は今、愛について書きたいんだなって気づいたんです」と仰っています。

シリア難民のニュースを見て、単純に同情できる人もいます。
でも、こんな暖かいところで彼らに同情するなんて傲慢な行為ではなかろうか?と思ってしまう人もいるのです。(私は後者)

誰かのことを思って苦しいのなら、どれだけ自分が非力でも苦しむべきだと、私は思う。
その苦しみを、大切にすべきだって。

渦中の人しか苦しみを語ってはいけないなんてことはないと思う。
もちろん、興味本位や冷やかしで彼らの気持ちを踏みにじるべきではない。絶対に。
でも、渦中にいなくても、その人たちのことを思って苦しんでいいと思う。
その苦しみが広がって、知らなかった誰かが想像する余地になるんだと思う。
渦中の苦しみを、それがどういうことなのか、想像でしかないけれど、それに実際の力はないかもしれないけれど、想像するってことは心を、想いを寄せることだと思う。

愛があるかどうかだよ。


良かったです。
やはり小説はマーケティングじゃないと思う。
書かなかったら窒息してしまう人が作家なのだと思うの。