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カテゴリ:本(日本人作家) > 酒井順子

久々に酒井順子さんのエッセイを読みました。

あの言葉と言い方はなぜ生まれ、なぜ消えていったのか。
言葉の変遷をたどり、日本人の意識、社会的背景を掘り下げています。

「自分らしさ」という言葉についての考察が面白かった。

2003年にSMAPの「世界に一つだけの花」が大ヒット。
当時の日本は、バブル崩壊以降の景気低迷が長引き、ゆとり教育が本格化したという時代。
一方では、六本木ヒルズができて「ヒルズ族」のような人達も登場。

「そのままでいい」的な言葉は、既に問題視されていた格差社会に抗おうとする人々の牙を抜く役割を果たしました。「そのままでいい」とか「あなたのせいじゃない」などと言われて安心し、「そのまま」であり続ける人が多かったため、ヒルズ族は安心して長者であり続けることができたのです。

酒井さんの『週刊現代』で連載中のエッセイをまとめたもの。
「タラレバ娘」や高樹沙耶逮捕、眞子様御婚約の頃ですね。

タラレバ娘と負け犬先輩という回が面白かったです。

自分、及び自分の周囲にいる独身女性達について書いた『負け犬の遠吠え』という本を出したのは、二〇〇三年、すなわち今から十四年もまえのこと。
「負け犬といくら嗤われようと、我々を見た後輩達が、『ああはなりたくない』って思ってくれれば本望」「我々は人柱になるのね!」などと覚悟を決めていたというのに、十四年も経ってまだ事態は変わっていないとはこれいかに。

・・・そうなんだよね。全然変わっていないんだよね。







『週刊現代』2015年7月4日号~2016年7月2日号に連載されたエッセイ45本が収録されています。
『週刊現代』ということもあって、下ネタなども結構あります。
一番面白かったのは「週刊現代の罪」というタイトルのエッセイだったのですが、ここにはちょっと書けない。

他、印象に残った文章。

「年収一千万円のゆるふわ」
考えてみると、今は女性業界が全体的に、モテと儲けの両立の方向を目指しつつあるようです。「儲け」は「キャリア」と言い換えてもいいのかもしれませんが、たとえば政治の世界においても、昔は市川房枝さんや土井たか子さんなど、「政治と結婚しました」的な女性政治家が目立っていたけれど、今の女性は皆、結婚・出産を目指す。
~略~
スポーツ界においても、同様です。昔は、「現役でいるうちは、女を捨てます」的な女性アスリートが多かったものですが、今は各競技に可愛い選手がいっぱい。若い女子プロゴルファーを見ていると、岡本綾子さんや大迫たつ子さんの時代とは隔世の感を覚えずにはいられません。

「女子選手の婿探し」
男子選手のように、サッカーさえ巧ければモテるわけではない。サッカーの練習、試合、お金を得るための仕事……と忙しいのに、なでしこ達は、結婚相手まで自分で探さなくてはならないのです。

・・・女って大変だよ!
総合職でも、女だと仕事+可愛げまで求められたりするもんね。


「子の無い人生」と言っても、独身の人だけがあてはまる訳ではありません。
結婚していて子供がいない人もいます。
そして、その中でも、欲しいけれど出来なかった人もいれば、最初から欲しくない人もいる。

本作では、様々なケースを検証しつつ、子供の写真入りの年賀状ってどうなの?とか、どうして日本の養子事情は欧米のようにはならないの?とか、不妊って男側に原因がある可能性も50%あるのに・・・、とか様々なテーマに切り込んでいます。

個人的には、むしろ写真入りの年賀状が欲しい。
(子供じゃなくて本人の写真でも良いから)

あと、なるほどなーと思ったのは、有名人の結婚のニュースで、なぜ女だけ「なお、妊娠はしていない」と書かれるのか、というテーマ。
これって出来ちゃった結婚を暗に責めているの?だとしたら、男にも同等の責任があるでしょう!と思いがちですが、全く逆の見方もできるのではないかと。
それは、「賞賛の意味を込めているのではないか?」というもの。

この結婚難の時代、妊娠もしていないのに結婚に持ち込むというのは、女性にとって至難の業。
妊娠という飛び道具を用いずに、女としての実力だけで相手に結婚を決意させるという「できてない婚」を達成した女性は、「神」とすら崇められる存在なのだ。

・・・面白い。





人が集えば必ず生まれる序列に区別、差別にいじめ。
我々の心に芽生える「人を下に見たい」という欲求。
誰もが無意識に持つその心理と社会の闇を、自らの体験と差別的感情を露わにし、酒井順子が徹底的に掘り下げる。

学歴、収入、出身地、美醜、既婚か未婚か、年齢、などなどあらゆる角度から検証している本作。

なるほどなと思った箇所。

世の中をざっくりと上と下に分けるとしたら、その境界線に近いところにいる人ほど、他者を下に見たい、という欲求は強くなるのです。それは自らのポジションを死守するための自衛手段と言うことができるでしょう。

という中の例として、分かりやすかったのが美醜の問題。

本物の美人は、「ブスって嫌い」とか「ブスじゃなくてよかった」などと、決して言わないのです。
美人でもない、しかしブスでもないというタイプの人が、一番ブスには厳しい。
中途半端な容姿の人がブスを嫌うのは、「自分とブスの間に、きっかりと一線を引いておきたい」と強く思っているからです。
中途半端な容姿の女は、ブスの領海侵犯を許しません。

ひーーーーー
でも全く同じことを林真理子さんも言っているなぁ。


1970年に創刊し、2016年4月に2000号を迎えた「anan」。

アンノン族から、ニュートラからスタイリストブーム、
ヌード、セックス、ダイエット、モテ、そしてスピリチュアルまで。
エッセイスト酒井順子さんが、雑誌の創刊から2000号までの道のりを辿った約1年半の連載を単行本化したものです。

この本を読んでみて分かったのですが、雑誌って生き物なのですね。
「anan」もブレブレなんですよ。
チビデブでもいいじゃない!(今で言うところの、ありのままの自分?)と言ってみたり、ダイエットって言ってみたり。
独身を楽しめと言ってみたり、結婚特集を組んでみたり。
「私は私」という姿勢を応援してきたのに、突如、「モテ」と言い出したり。

酒井さんのまとめが上手いです。

アンアンを信じてハウスマヌカンになったけれど、時代は変わってしまった。
アンアンを信じて、とっぴで流行の先端を走る格好をしたはいいが、全くモテなかった。
アンアンを信じてセックスの手練手管を学んだが、いざ実践してみたら相手の男性からアバズレ扱いされた・・・・・・と、ギャップに落ちた人は、アンアン四十六年の歴史の道筋に累々と横たわっています。
しかし私は、そんな「アンアンの嘘」にのせられた人達は、今もアンアンを恨んでいない気がするのです。
それぞれの時代において、常に女性の欲望に対して忠実に「道」をつけた、アンアン。
道の先にたどりつく場所は見えなかったかもしれないけれど、読者達はアンアンの道を歩いている時、「時代と共に歩む」という感覚を全身に覚え、確かに幸せだったのではないかと思うから。

なお、私個人は「アンアン」を買ったことがありません。
(薄くて、読むところないじゃんと思っていた・・・。)
なので、本作もふーん・・・という感じだったのですが、「アンアン」を読んできた人には、もっと面白いだろうと思います。

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